Nitepunkプロフィール
ジョージア出身、アメリカ在住のDJ、Producer。
ブルックリンのアンダーグラウンド・シーンから頭角を現し、現在はロサンゼルスに拠点を移し活動中。
この世のものとは思えないシンセシスとブレイクビーツにインスパイアされた自身の楽曲、そして優美な美しさ、激しいダンスグルーヴ、斬新なサウンドスケープを融合させた、まったく新しい、それでいてどこか懐かしい体験を提供するカリスマ的なライブで瞬く間に知名度を上げている。
2023年にはHARD Recordsからアルバムをリリースし、ベースミュージックシーンの新たな可能性を切り開く。
Habstrakt、Joyryde、Noisia、Peekaboo、MoodyGood、Excisionなどのサポートを得て、間違いなく真の力を発揮している。
過去2022年7月に東京と名古屋で来日公演を行ったNitepunkだが、再び2年半の時を経て2025年1月に東京、大阪での来日公演を行うことが決定した。
今回はそんなNitepunkにDUBNEEZメンバーのTsuvasurとnikoが実際に会いインタビューをしました。
これまでの自身の音楽人生や日本に対する思い等を語っていただきました。
それではどうぞ。
Nitepunkにインタビュー
はじまり
DUBNEEZ – まず音楽を作り始めるまでの経緯を教えてください。
Nitepunk – ずっと音楽に関わっていたよ。小さな頃からずっとダンスをしたり歌ったりしていたね。
それで11歳の時に携帯電話でビートを作り始めたんだ。ソニー・エリクソン(ガラケー)で「Music DJ」ってアプリでドラムやメロディーを簡単に作って遊んでいた。
14歳のときに、暇でピアノの前に座ってたら自分でメロディーを作れることに気がついたんだ。
そのメロディーが意味を持っていると感じて感情を表現できるように思えたんだ。それでリズムやサウンドを加えてどんどん作り上げていくことが必要だと思った。
そこから音楽制作を始めたんだ。
DUBNEEZ – 最初はどのような音楽を作っていたのですか?
Nitepunk – Dubstepやエレクトロニックミュージックを既に聴いていたから、「どうやってこれを作るんだろ?」とチュートリアル動画を調べてたよ。それが始まり。
自分に合うソフトを探してパソコンで音楽を作るようになって、少しずつ曲作りが上手くなった頃にYouTubeとSoundCloudに作った曲をアップロードし始めた。
同時にYouTubeにはダンス動画をアップしていて、その動画を俳優のロバート・ホフマン(映画『ステップ・アップ2』の主演俳優)が見つけてコメントしてくれたんだ。
俺はずっと彼のファンだったんだけど俺の音楽をチェックしてくれて「この曲を買いたい。これでダンス動画を作りたい」って言ってくれたんだ。今は彼とは友達だね。
その頃、俺は映画制作を勉強するためにブダペストに行っていて、そこにいた時に彼が俺の曲で踊ってる動画を公開したんだ。それで地元のジョージア(国名)でちょっとした騒ぎになった(笑)。ジョージアは小さな国だからこういった事は珍しいんだ。
その動画が話題になって、「なんだこいつは?」「誰だ?」「なんでハリウッド俳優と繋がってるんだ?」みたいになって連絡がいっぱい来るようになった。それでテレビやインタビューにも出たよ。
ブダペストから帰ってきたら有名になっていたのでその機会を利用してたくさんのショーに出演した。
「これがDubstepだ!これが俺がやっていることだ!」「俺はこれが好きだ!こう感じるべきだ!」と人々に伝えてた。
最初は小さな会場でダブステップやドラムンベース、ハウスとか、自分が好きなものを色々流していた。汗だくになるような小さなショーをほぼ全域で開催するようになって、大きなアーティストの曲をプロデュースもするようにもなった。
基本的には俺が必要な時にちょっとしたプロデュースをするくらい。でもすぐに限界を感じた。小さな国だからね。俺はいつかアメリカに行きたかったし、そこでキャリアを続けたいと思ってたよ。
DUBNEEZ – アメリカへ移住する決断をするのに苦悩はありましたか?
Nitepunk – 友達にも勧められて、20歳のときに観光ビザを取得したんだ。
実際行くと決心するのが怖かったよ。ガールフレンドもいたし、友達もみんなジョージアにいたし俺の人生の全てがそこにあったから手離すのが怖かった。
ビザを取得しても1年半くらいは渡米せずにジョージアでお金を貯めて音楽業界で自分のことをしたり、ショーをしたりしていた。
ジョージアの大学に入学したけど親に言わずに退学して、毎日学校に行くフリをしてマクドナルドやガールフレンドの家で音楽を作ったりしてた。その後に両親に辞めたことを伝えたけどね。
だんだんとジョージアでアーティストとしてできることはやり尽くしたと感じ、次のステップへと進むために「やるしかない!」と決意して、遂にアメリカに引っ越したんだ。
ほぼ片道切符みたいなもので帰ることはないと分かっていた。もし帰ったらビザが切れて戻れなくなるからね。
そしてNitepunkという名前での活動も始まった。
DUBNEEZ – “Nitepunk”という名前には、どんな意味が込められていますか?
Nitepunk – アメリカに来て全部やり直して実家のことは何も考えないで新しいプロジェクト、新しい姿勢で、自分で何かを作りたかった。
人に呼ばれていた名前ではなくて自分が何者であるか、何者になりたいか、を考えた。色々な言葉を試しているうちにNitepunk(ナイトパンク)という言葉が気に入った。
“パンク”は子供の頃から惹かれていた言葉。その背後にある姿勢もよく理解できていたと思う。それが俺の成長の仕方でもあったから。
怒っているわけじゃないけどジョージアで色々なことに気づいていた。例えば「誰もファッションセンスがない!」とか「不快に感じるようなメンタリティだ!」とかいつも流れに逆らってた。
おかしいことを言ったら声を大にして批判してた。「変えたい」と思ってた。
俺は地元の友達とベースミュージックとかダブステップをやっていたんだけど、それを広めたくていつも頑張っていた。なぜかは分からないけどいつも反抗したかったしパンクという言葉が自分が好きなもの、なりたいもの全てだったんだ。
“ナイト”の部分は、夜が一番クリエイティブになれるし平和で世界が眠っている時に社会とは関わらず音楽と創造性に時間を費やせるところが好きだから。他の人が眠っているときの方がよりクリエイティブになれるしそういう世界に入れる気がするよ。
でも今は名前の意味が変わったような気がする。”ナイトパンク”は火を灯すようなものだと思う。音楽でも人でも、触れるものすべてに命を吹き込み、より良くしたいと思っている。
アメリカへ移住してから現在まで
DUBNEEZ – 大きな決断をしてアメリカへ移住してから最初はどのような生活をしていたんですか?
Nitepunk – 最初の1年間は本当に大変だった。アーティストとしてグリーンカードを申請するために、クラブやテレビ局、ラジオ局から今までした音楽の仕事やショーの契約書、推薦状など全部集めて申請した。仕事もほとんど無く掃除とか皿洗いをやったりして働いていたけど、1年経つ頃にグリーンカードが承認されたんだ。
その後の2016年頃からDubspot音楽学校に入学し、技術スタッフとしても働きながらニューヨークでの音楽生活がスタートして楽しかったよ。
DUBNEEZ – ものすごく苦労したんですね… その後はどのような活動をしていましたか?
Nitepunk – 2019年にニューヨークに住んでいたEmalkayのFabricationという名曲をリミックスしてUKFからリリースしたのが印象的だね。
Emalkayから「Fabricationをリミックスしてくれないか?」と依頼が来てStemsが送られて来たんだ。
その日は外出していたんだけど、帰宅するときに地下鉄で早速リミックスを作り始めて夜中には大体出来上がり、数週間かけて微調整を繰り返し完成させた。
それがUKFからリリースされてダンスミュージックの世界で大きな反響を呼んで名前が知られるようになった。すごく光栄だったし自分にとって大きな出来事だったよ。
このリリースの後は日中はフードデリバリーなどの仕事をしながら、Nitepunkとしての活動を積極的にするようになった。そうしているうちに初めてマネジメント会社から声がかかり、本格的なプロフェッショナルなチームが俺のために動いてくれるようになったんだ。
「Ultra Musicでプレイしたい?」「Lost Landsでプレイしたい?」みたいに言われてすごく興奮したよ。
でもフェス行きの飛行機のチケットも買って準備をしていたら、新型コロナウイルスによるパンデミックが起こって家に閉じこもらないといけない状況になってしまった。
ショーも全てキャンセルになり、「一体何のために音楽をやっているんだ?」と絶望してしまった。
そんなときにNever Say Die Recordsから「一緒にEPを作りたい!」と連絡が来たんだ。「絶対に俺がアートワークを用意していいならやる!」と言ったら「いいよ」と言ってくれて、それで『Red Turbulence EP』を作ることになった。
「これがNitepunkサウンドだ!」というのを示した大きな出来事だったね。
友人のザック(Strobezとしても活動中)とデイビッドと一緒にビデオも制作したね。
このリリースの後にはExcision主宰のSubsidiaからも『Rip』という曲をリリースしたりもした。
そしてHard Recordsと契約を結んでシングルをリリースし始め、最終的に初アルバム『HUMAN』をリリースした。このアルバムはアメリカ・ニューヨークへ移住して最初の8年間のストーリーを音楽に詰め込んだんだ。シングル、アルバム、リミックスをリリースしてたくさんのハイライトがあるね。
『HUMAN』のおかげでダンスミュージックの世界で俺の名前がゆっくりと知られるようになったと思う。
他にも、DEFで最初のヘッドラインショーを行ったんだけど、400人くらいのお客さんが1時間ずっとモッシュピット状態だったんだ。信じられなかったよ。
その後ヨーロッパツアーをしてLAでもヘッドラインショーをしたけど、それもまた大きな出来事だった。チケットは完売。アメリカとカナダでも30公演のツアーをした。あれはヤバいツアーだったね。ツアーが終わった頃には疲れ果てて体調を崩してしまったけどね。
2024年からはたくさんの曲をまた作り始めて、大きな変化の年だった。ロゴを新しくして、新しいサウンドを模索したりもした。過去の全てを過去に置いて、Nitepunkの生まれ変わりのような感じだった。アルバムのリリースも終わり以前より自由に音楽をリリースしたりミュージックビデオをリリースして今に至る。