GOTH-TRAD [DEEP MEDi MUSIK / Back To Chill]
様々なアプローチでヘビーウェイト・ミュージックを生み出すサウンド・オリジネイター。
2001年、秋本”Heavy”武士とともにREBEL FAMILIAを結成。“METMORPHOSE”でのデビューライブを皮切りに、Fuji Rock Festivalなど多くの国内フェスに出演。 2007年までに5枚のシングル、3枚のアルバムをリリースする。
2003年に国内でソロ活動を本格的にスタートし、積極的に海外ツアーも始める。
2005年に発表された3rdアルバム『Mad Raver’s Dance Floor』に収録されたタイトル「Back To Chill」が、ロンドンのダブステップシーンで話題となり、2007年にUKの〈SKUD BEAT〉から「Back To Chill EP」を、〈DEEP MEDi MUSIK〉から12インチ「Cut End / Flags」をリリース。
2006年に始動した自身のパーティー”Back To Chill”は、日本初のレギュラーDubstepパーティーとしても話題を呼び、国内のヘッズのみならず、海外のベース・ミュージック・ファンからも注目を集め、今や18年以上続くダブステップ/ベースミュージック・パーティーの最高峰かつ代名詞にもなっている。
2014年11月には、Back To Chillのレーベルとして初となるコンピレーション”MUGEN”をリリース。
2021年には3枚のニューアルバム”MUTATIONS”、”PSIONICS(Normal Version)”そして”SURVIVAL RESEARCH”をリリースし、積極的な制作とレーベル運営を行っている。
ヴォーカリスト”Diesuck”とノイズアーティスト”Masayuki Imanishi”と共に2017年に結成した新ユニット”EARTAKER”の1stデビューアルバム”HARMONICS”が、気鋭レーベル”Bedouin Records”よりリリースされ、その新たなサウンドに注目が集まる。
今回はそんなGOTH-TRAD氏に、DUBNEEZのメンバー(Tsuvasur、KEYBOW、viwiv、Niko)でインタビューさせて頂きました。
そして、2024年7月11にも開催されるBack To Chillに関することや、貴重なDubstep黎明期のお話、これからプロデュースを始めたい方に向けたメッセージ等をたくさんしていただいたので、是非最後まで読んでみてください!
GOTH-TRAD氏にインタビュー
GOTH-TRADとしてアーティスト活動を始めるまでの経緯
DUBNEEZ – まず、曲作りやアーティスト活動を始めるまでの経緯について教えてください。
GOTH-TRAD – プロデューサーとして曲作り始めたのが多分1999年とかで、2000年に初めて12インチ(アナログレコード)で出したりリリースし始めたね。
それまではずっと広島に住んでて、中学生くらいからレコードとか買い始めて、DJやりたいなって気持ちはあったんだ。
大学に入って上京してきたんだけど、特にミュージシャンになりたいから上京したって訳じゃなくて、普通に勉強するつもりで大学に来たんだよね。
ただ、音楽は大好きだったから趣味でDJでもやろうかなって思ってた。
広島で仲良かった結構年上の先輩がトラック作ってて、その人に影響受けて「DJやるより曲作ろう!」と思って1999年から作り始めたのかな。
ラッキーなことに2000年に初めて12インチ(アナログレコード)で出したりリリースし始めたんだけど、そのときDJはやるつもりなくて、自分的には人の借り物の音楽をプレイするよりも、自分で作ったものをライブでプレイしたいっていう感覚でいて、トラック作ってライブやるっていうのをずっとやってた。
レコードはいっぱい買ってたけどDJをやる為じゃなくて、曲作りでサンプリングするために買ってたね。
そして1stアルバム GOTH-TRAD I を2003年に、2ndアルバム The Inverted Perspective を2005年の1月に出してて、その2つのアルバムはどっちかというとノイズとかエクスペリメンタルとかインダストリアルみたいな実験的な音楽のアルバムなんだよね。
Dubstepを作るようになった経緯
DUBNEEZ – 最初はエクスペリメンタル系を中心に作って活動してたんですね!
そこからいわゆるDubstepを作るようになった経緯も教えてください。
GOTH-TRAD – 2005年の10月くらいに3rdアルバム Mad Raver’s Dance Floorを出して、その中にBack To Chillって曲がある。
俺はUKのGrimeとか90年代のレイブミュージック、ジャングル、それこそアブストラクトヒップホップとかトリップホップとかに影響受けて作ったアルバムなんだよね。
そういうUKのダンスミュージクってのはずっと聞き続けててアイデアはいっぱいあったから
2ndアルバム出したのが2005年の多分1月とか2月とかで、この3rdアルバムはもうそ同じ年の9月とか10月に出してて、もうアイデアをぶっ込んですぐ完成できたアルバムで。
俺は初期のWileyのRoll Deep周辺とか初期のGrimeとかは良く聴いてて、
そのときRephlexっていうAphex TwinがやってるレーベルからGrime,Grime2っていうコンピレーションも出てて。
それはGrimeってアルバム名ついてんだけど、収録曲はPlasticmanとかMala、Loefahとか、そういう今のいわゆるDubstepのプロデューサーがインストを作って、それをAphex Twinがコンパイルして出してたコンピレーションで。
そういうのも聞いたりしてたね。
そもそも当時はダブステップって言葉があんまり存在してなかったから自分は知らなかったけど。
WileyのMorgueってインストの曲が結構好きで、当時はグライムに分類されてる曲だったんだよ。
でも今聞くとやっぱDubstepだなと思う。
そういうのに影響受けてBack To Chillって曲は作ったね。
Mad Raver’s Dance Floorを出した頃に、The Bugっていう2004年ぐらいの時はDubstepよりもうちょっとDancehall Reggaeみたいなのやってるアーティストの日本ツアーがあって。
当時 REBEL FAMILIA っていうバンドを Dry&Heavy のベーシスト「秋元”HEAVY”武士」と2人で活動してて、
REBEL FAMILIAでThe Bugのツアーサポートをやったんだよ。
俺はもうケヴィン・マーティン(The Bugの本名)はThe Bug名義の前のTechno Animal名義で実験的なヒップホップとかアブストラクトやってる時から大ファンで(笑)
それで一緒にツアー回って色々喋ってるときに、
「ゴス、グライムとか知ってる?グライム好き!?好き?」
みたいな感じで話が盛り上がったりしたね(笑)
その当時、アブストラクトヒップホップ繋がりのイギリス人の友達がちょくちょくいて、
みんな口を揃えて「MySpaceやった方がいいよ!」って言ってて。
MySpaceってのは昔あったFacebookみたいなサイトで、音楽もアップできて近しい人と交流できる、みたいなサイトがあって。
それで俺もMySpaceで曲をアップしてたら、ちょうど2005年の終わりぐらいか2006年の頭ぐらいのことかな。
Dubstep ForumってWebサイトができてて(現在は community.dsf.ninja)、そこで「GOTH-TRADっていうJapanese Dubstep Producerがいるぞ!」
みたいな感じでスレッドが立ってて(笑)
それが立ってから向こうのUKのDJとかラジオDJ、レーベルからもオファーが来て、だんだん向こうの色んな人と繋がり始めたんだよね。
ただ2005年ぐらいの時はDubstepってあんまり知らなくて、インストのGrimeみたいな感覚で作ってて。
あと2006年の頭にBBCでMary Anne HobbsがDubstep WarzっていうSkreamとかMala、LoefahとかKode9の辺りを集めてやったラジオショーがあって、その時にはもうDubstepっていうものの存在は分かってただけど。なんかその当時はDubstepは新しい音楽みたいな。
「Back To Chill」を始めるまで
DUBNEEZ – 気づいたら自分の曲がDubstepと海外で呼ばれるようになっていたんですね…!
そこからBack To Chillのイベントを始めるようになった経緯を教えてください。
GOTH-TRAD – そのくらいの時にMySpaceでMalaとメッセージのやり取りをしてね。
それで1回イギリス行ったときに、LoefahとかYoungstaとかが出てたFWD>> っていう伝説的パーティーがあってそれとか見に行ったりして、Malaとも会ったんだよね。
それまでDJっていうものにそんな興味はなかったんだけど、Dubstepのシーンとか調べてたらDubplate、未発表曲とか自分がレーベル運営しててレーベルの仲間の音楽だったりとか、レーベルのまだアンリリースの曲とか、それこそさっきのDubstep Warzとかもう自分達のオリジナル曲ばっかかけるみたいな。
そういうDJのスタイルを俺はDubstepのシーンで初めて見て、「これはDJやる価値すごくあるな」みたいな。
ただ自分でライブをやるよりも、さらにもうちょっと良い意味でフレキシブルになるっていうか。
自分の音楽プラスアルファで仲間の音楽とかプレイするスタイル、それはすごいもうほぼライブセットみたいで。
実際にMalaのDJ見た時にもうびっしりほぼ自分のダブプレート、自分のレーベルのダブプレート、近しい仲間のダブプレートだけでプレイしてるスタイルを見て「あっ、これは俺は日本でやんなきゃダメだな」と思って。
それをきっかけに自分の曲名から名前を取って「Back To Chill」ってイベントを始めたっていう。
Back To Chillを開催する上で心がけていること
DUBNEEZ – 実際に海外の現地のシーンを見て自分でも日本でやろうと思って始めたんですね!
Back To Chillを開催する上で心がけていることなどはありますか?
GOTH-TRAD – まずダブプレートっていうアンリリースとかオリジナルをかけるっていうスタイルに惹かれてDJをやろう、DJやるならこのカルチャーを日本でパーティーとしてやるべきだなと思ってBack To Chillを始めたんだよね。
もう1つの理由は、当時は今みたいにあんまり曲を作るっていうスタンスを持つDJがあんまりいなくて。
今だとそういうのがちょっと浸透して、曲作んなきゃオリジナル作んなきゃって結構みんな分かり始めてるけど、当時は変わったスタイルでDJやるとか、エフェクトいっぱい繋げるとかDJの手法を評価されがちだったんだよ。
オリジナリティっていうとこはあんまり評価されてないっていうのは俺の中ではあって。
俺はずっとライブやってる人間だったから全部自分の音楽でやりたいみたいな。
やっぱり向こうのカルチャーに触れて、「あっ、これは日本で絶対やるべきだ」って。
Dubstepに限らずテクノ、ヒップホップにしてもレゲエ、ダブにしてもダブステップ、ドラムンベースにしても、やっぱそういう人口が増えないとダメだなと思ったからBack To Chillを始めて。
初めはさらに言うと、もう曲作ってるプロデューサーかつDJのやつしか出演させませんっていうぐらいのハードルでやり始めてて(笑)
それと気づかなかっただけで、実はジャングルとかドラムンベースとか、どっちかというとジャングルの世代の時とかって、それこそレゲエもそうだし日本で言うとそのダンスホールとかは、そういうことやってたんだよね。
ダンスホールの人たちは自分のオリジナルのトラックを作るんじゃなくて、オリジナルのダブを取りに行くっていう手法なんだよ。
オケ(インスト)はそれこそスレンテンのリディムで向こうのシンガーに、
「自分たちのクルーがスペシャルだぜ!」みたいなリリックを、その曲に合わせて歌ってもらうとかっていうオリジナルを作って、日本でサウンドクラッシュをやるみたいな。
だからダンスホールが流行ってた時は、そういうのをみんなすげえやってたっていうのは知ってた。
ただトラック、音楽自体をゼロから作るっていうのはダンスホールの人たちやってないから、俺はずっとプロデュースしてきた人間だし、やっぱそこに惹かれたていうか。
そこでやっぱこのカルチャーを日本でやらなきゃなって。
だからそこで俺は知った。
UKの昔からあるスタイルだったのかもしんないなとは思うんだけど、ジャングルとか時代とかドラムンベースの時代からダブプレート、未発表曲を例えば近しいDJだけにエクスクルーシブで交換するとかトレードするっていうカルチャーは多分あったんだと思う。
ただ俺はタイミング的にもきっかけがDubstepだったから自分が入り込めたのかな。
Dubstepがきっかけでリワインドっていうカルチャーだったりとかも知ったし、レゲエの部分は知ってる部分もあったけど、やっぱそのDJスタイルの中で結構肌で感じて。
あぁ面白いなと思ったのはやっぱりDubstepに入ってからだし。
だからもう最初は凄かったよ。
俺が、「あっ、盛り上がった」と思ってリワインドしたら、
みんな「え、なんで止めたの?」みたいな。(笑)
みんなそれだった。
DUBNEEZ – 超熱い話ですね!
そういうダブプレート文化とかリワインドとかを定着させていく努力みたいのはありましたか?
GOTH-TRAD – 色々やったね。その時はMCもいたし自分でも喋ったりして(笑)
めちゃめちゃめんどくさい説明とかしてたもん。
「今日の俺のセットはあえてこっちのターンテーブルで俺のオリジナルだけかけて、こっちのターンテーブルでMalaの曲だけかけるセットやります!」みたいなのを言ってやってた(笑)
でも例えばCDでかけてると、何の曲かけてるか分からないじゃん?
「これこの人作った曲なの?」って。
なんで俺はオリジナルを1曲でも入れたDJを評価してブッキングしたいとかって思ったかと言うと、例えば当時ってDubstepって曲が少なかったのよ。一晩で曲被りまくったりするの(笑)
みんなレコードかけたりするからミックスも似てくんのよね。
例えば、「下手くそだろうがなんだろうが、1曲でもオリジナル入れたらもう世界で1つしかないミックスになる」って俺はみんなに言って。
「しかもこの人しか持ってなかったらここでしか聞けないんだよ?すごくない!?」
「それって別に良かろうが悪かろうがすごい経験なんじゃないの?」
「フロアの人にとっても自分のDJとしてもすごい経験にならない?」
「もしかしたら、その曲が世界的に大ヒットするかもしんないのに。」
「それをもうこんなに早い段階で聞けるってすごくない?」
みたいな感じで俺は説明してた(笑)
もうみんな毎月やってたからさ、それまでに合わせて曲を作ってくるのよ。
それである時、俺が1番初めにサウンドチェックでDEEP MEDi MUSIK(Mala主宰のレーベル)から出したCut Endをかけた時に、みんな「何この曲!?」「これ作ったの」みたいになって。
「あーそう俺作った作った」って言って(笑)
それでMalaと出会った2ヶ月後ぐらいにMySpaceにアップしたのよ。
Back To Chillのサウンドチェックとかでかけた時は、別にまだリリースするとかも決まってなかっかったし
ただでもみんな何この曲やばいねとかなって、でそのMySpaceにじゃこれアップしよってアップしたら
速攻Malaから「リリースしたい」ってメール来て。
俺はその切磋琢磨する感じがすごくいいと思ったのよ。
パーティーを毎月続けようとかっていう、いろんな意味でのモチベーションとかがさ。
自分がを毎回アップデートさせたいためにパーティーをやるっていうか。
DUBNEEZ – めっちゃ素敵な話ですね✨
海外でもDJしたり、Back To Chillを開催した時のお話も聞きたいです!
GOTH-TRAD – 俺は1番初めに行ったのは確か2002年とかだったかな。
パリにバトファー(Le Batofar)っていうクラブがあって、セーヌ川に停泊してある船の中がクラブとかライブハウスになってて。
そこがバトファー東京(Batofar Cherche Tokyo)ってプログラムで、日本のアンダーグラウンドのアーティストを呼ぶっていうイベントがあって。
その当時のアンダーグラウンドって言っても、Ken Ishiiさんとかも出てたし、俺はDJ BAKUと一緒に呼ばれたのかな。
当時の俺はアブストラクトヒップホップとか、インダストリアルヒップホップとかノイズっぽいこともやったりしてたから、そういうので招待されて。
それで、その年ぐらいから海外は毎年行こうって決めて。
当時はどっちかというとノイズっぽいことの方がメインだったから、向こうでブッキングを手伝ってくれる女の子と知り合って、ブッキングしてツアーを毎年1回組んでくれて。
国際交流基金で申請してちょっと援助してもらってツアー組んで回ったりしてて、全然ダブステップとは違うシーンでやってたね。
そこから2005年にMad Raver’s Dance Floorを出して、ライブの現場を変えようと思ってて、ヨーロッパツアーはDubstepのパーティーにブッキングされるようになったね。
それで2007年にMad Raver’s Dance Floorに入ってたBack To Chillって曲が12インチレコードで、別のイギリスのレーベルからリリースされて。
それと2007年にDEEP MEDi MUSIKからCut Endも出たから、結構ツアーを回るようになって。
Back To Chill自体も台湾でやったことあるね。
俺は1回単独で台湾で呼ばれて、それで「来年は台湾でBTCを開催したいんだ」って言われて、じゃあやろうよって(笑)
それで2017年にやることになったんだよね。
日本からは俺と100madoとENAの3人とVJのDBKNを連れて行って、向こうからはDJ2人入ってくれたのかな
当時は向こうでもDubstepとかって、結構一般的に広がっててシーンがあったからね。
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